学校群15年史 - 1970年 11群(日比谷+九段+三田)首都圏2位

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  • 東大合格者数の推移
1968年 都県 1970年 都県
1 ◎灘 兵庫 132 1 ◎灘 兵庫 151
2 日比谷 東京 131 2 △教附駒場 東京 136 △3
3 西 東京 102 3 11日比谷+九段+三田 東京 116 ▼1
4 戸山 東京 92 4 32西+富士 東京 110 ▼1
5 △教附駒場 東京 91 5 △教育大附 東京 105 △4
6 新宿 東京 69 6 22戸山+青山 東京 94 ▼2
7 ◎麻布 東京 63 7 ◎開成 東京 86 △1
8 ◎開成 東京 61 8 ◎麻布 東京 80 ▼1
8 △教育大附 東京 61 9 湘南 神奈川 61 △1
10 湘南 神奈川 60 10 ラ・サール 鹿児島 59
11 小石川 東京 58 11 旭丘 愛知 57 △1
12 旭丘 愛知 57 11 41小石川+竹早 東京 57 ▼1
13 両国 東京 55 13 ◎武蔵 東京 53 △1
14 ◎武蔵 東京 51 13 61両国+小松川+隅田川 東京 53 ▼1
15 浦和 埼玉 49 15 21新宿+駒場 東京 52 ▼9

高校紛争 1969-1970 - 「闘争」の歴史と証言 (中公新書)

 この年から学校群世代が受験に参入します。学校群の評価を誤らせるのは、高校入試が学校群単位なのに、大学合格実績を高校単位に分割していることです。学校群を評価するのであれば、大学合格実績も当然学校群単位で評価すべきです。この年は1969年の東大入試中止の影響で、浪人をして東大を目指す受験生が多かった年でもあります。したがって、学校群以前の大学受験生も多数いました。

  • 日比谷131 → 11群(日比谷+九段+三田)116
  • 西102 → 32群(西+富士)110
  • 戸山92 → 22群(戸山+青山)94
  • 新宿69 → 21群(新宿+駒場)52
  • 小石川58 → 41群(小石川+竹早)57
  • 両国55 → 61群(両国+小松川隅田川)53

 都立の学区トップ校が所属する学校群では実績はほとんど変わっていません。東京教育大学附属駒場高校が首都圏一位になったのは学校群の影響があるでしょうが、学校群のせいで、抽選で不本意な高校に回された生徒がいきなり入学を辞退して、私立に大挙して回ったという傾向は読み取れません。当時でも難関私立は中高一貫教育が基本であり、高校入学時点から私立にコース変更するのは現実的ではありません。
 結果的には11群(日比谷+九段+三田)が首都圏2位の位置を確保し、私立を全く寄せ付けませんでした。ただ、大学合格実績が高校ごとに細分化されて発表されることで、学校群制度に失望した人も多かったでしょう。保護者には、行く先の見えない都立高校に自分の子供を託すよりも、私立に託そうと考えた人も増えたはずです。ただし、その時点で中学入試を準備してそれが大学合格実績に反映されるには、ここから8年の潜伏期間が必要になります。
 また、この時期は大学紛争に模した高校紛争も多く、新宿高校が特に深刻でした。新宿高校が学校群の初期に脱落したのは高校紛争の影響が強いと言われています。
 全国的には灘高校が全国1位を続けたとこと、ラ・サール高校が上位10位以内に食い込んできたことが話題です。