1952年から1966年(卒業年1955年から1969年)に実施された制度です。便宜上、1955年以前も含めます。この制度は都立全盛期を牽引した制度です。これは制度が良かったというより当時は私立という選択肢はなく、しかも東大もローカル大学だった時代です。都民にとって何の不平不満もない制度だったからこそ、普通に優秀な生徒が進む自然な制度でした。
- 表の公立首位校は首都圏限定、首位校、二位校が複数ある場合は前年度の東大合格者が多い学校を優先
全国首位校 | 全国二位校 | 公立首位校 | 公立二位校 | |
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1950 | 日比谷(84) | 小石川(82) | 日比谷(84) | 小石川(82) |
1951 | 日比谷(86) | 西(67) | 日比谷(86) | 西(67) |
1952 | 日比谷(82) | 新宿(60) | 日比谷(82) | 新宿(60) |
1953 | 日比谷(98) | 新宿(69) | 日比谷(98) | 新宿(69) |
1954 | 日比谷(105) | 戸山(66) | 日比谷(105) | 戸山(66) |
1955 | 日比谷(108) | 新宿(63) | 日比谷(108) | 新宿(63) |
1956 | 日比谷(99) | 小石川(72) | 日比谷(99) | 小石川(72) |
1957 | 日比谷(107) | 新宿(94) | 日比谷(107) | 新宿(94) |
1958 | 日比谷(126) | 新宿(76) | 日比谷(126) | 新宿(76) |
1959 | 日比谷(169) | 戸山(93) | 日比谷(169) | 戸山(93) |
1960 | 日比谷(141) | 戸山(120) | 日比谷(141) | 戸山(120) |
1961 | 日比谷(170) | 戸山(117) | 日比谷(170) | 戸山(117) |
1962 | 日比谷(186) | 西(122) | 日比谷(186) | 西(122) |
1963 | 日比谷(168) | 西(134) | 日比谷(168) | 西(134) |
1964 | 日比谷(193) | 西(156) | 日比谷(193) | 西(156) |
1965 | 日比谷(181) | 西(126) | 日比谷(181) | 西(126) |
1966 | 日比谷(128) | 西(126) | 日比谷(128) | 西(126) |
1967 | 日比谷(134) | 西(120) | 日比谷(134) | 西(120) |
1968 | ○灘(132) | 日比谷(131) | 日比谷(131) | 西(102) |
1969 | - | - | - | - |
多くを語る必要はないでしょう。首都圏公立首位校は常に日比谷高校、全国首位校では、日比谷高校が1950年から1967年まで首位を維持し、1968年に首都圏外の灘高校が首位に就きました。二位校は、小石川、西、新宿、戸山が交代で獲得しています。前半は新宿高校が多く、後半は西高校になっています。特に、1950年の小石川と、1966年の西は首位の日比谷に2名差まで詰め寄っています。
今から思えば、非常に良い制度だったのですが、比較対象がない当時は、15歳の春を泣かせて、受験戦争と高校間格差を助長する非常に悪い制度だと(一部の)識者には思われていました。そして、受験戦争と高校間格差を解消して、15歳の春を泣かせない理想的な制度として学校群制度が1967年に開始しました。一方、皮肉にも、非常に悪い制度であった学区合同選抜制度最後1969年の卒業生は、身に覚えのない酬いを受け、東京大学の受験機会も与えられずに、高校を卒業することになります。*1