都立2016 - 都立中教校

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※この記事の投稿日は4月2日です。

校名 卒数 東率 早率 慶率 調整率 前年率 左位 増減率
25 小石川中教 1xx 14 9.5 37.2 26.4 9.46* 5.98 39△ 58.18
64 立川国際中教 1xx 4 2.7 32.9 9.4 3.77 2.04 104△ 84.33
70 桜修館中教 1xx 3 2.0 30.7 9.3 3.41 2.43 90△ 40.32
109 区立九段中教 1xx 17.2 7.6 1.80 2.41 93▼ -25.40
129 三鷹中教 1xx 1 0.7 9.2 4.6 1.24 0.36 −△ 246.71
145 南多摩中教 1xx 8.2 5.4 1.06 0.40 −△ 161.47

 今回は、都立中教校です。高校募集は行いません。完全中高一貫校となります。高校募集を行わないことから、大胆な先取り教育が可能になります。今年は、中等教育学校として設立された進学校がすべて大学合格実績を出しました。
 今年、一期生が卒業した三鷹南多摩の実績はまだ目立ちませんが、前進となった高校がそれほど著名な進学校でなかったことから、一期生の早慶の実績は前年度比3倍前後の伸びになっています。立川国際は、今年3期生です。私立中高一貫校の競合が少ない多摩地区で徐々に実績を伸ばし、都立中教校では2番手につけています。桜修館と区立九段は5期生になります。調子の良い年と悪い年があって実績が安定しませんが、評価が定着するにつれて、今後も実績を伸ばしていくでしょう。
 さて、都立中教校のトップとなり、東大二桁合格を達成した小石川です。東大14人というのは、1990年の15人以来、実に26年ぶりです。しかも、小石川は完全中高一貫化したことで、教室数の制約から、学年当たりの生徒数は半分になっています。当時の基準でいうと東大28人に匹敵します。この数字を上回るのは1972年の40人になります。もう既に学校群導入直後までに復活しています。(同様に日比谷の53人も、1971年の57人に次ぐ実績です。)
 小石川と日比谷が学校群導入直後にまで復活したということは、次の予測モデルは府立五中にまでさかのぼる必要があります。

  • 旧制一高、合格者数上位10校(東大合格高校盛衰史より)
1900 1907 1909 1911 1917 1925 1934 1939 1942
私立 8 7 6 5 5 4 1 1 2
公立 2 2 4 4 5 4 8 8 7
国立 0 1 0 1 0 2 1 1 1

 1900年以前は、第一高校(東大教養学部)に合格するには、私立に通う必要がありました。これは、公立中学卒業時の学力では、一高の入試問題に太刀打ちできなかったからです。また、私立は1886年の中学校令以前は、予備校として東大合格を請け負っていました。この私立独占に割って入ったのが、府立一中(日比谷)です。その強力なライバルだったのが府立四中(戸山)です。この2校は常に合格者数上位10校に登場していました。1911年まではこの2校に加えて、府立三中(両国)や地方の公立中学が上位10校にときどき加わるぐらいで、それ以外は私立が独占していました。この時代は、一部の給費生を除けば、一高と東大は富裕層や有力者のための学校でした。
 この構造が崩れたのが1919年の府立五中(小石川)設立です。府立五中は設立後すぐに上位10校の常連になりました。東京府は一般庶民から人材を発掘するために1922年以後、府立中を多数設立し、1943年までに府立二十三中まで設立しました。これが戦後の都立全盛時代につながります。
 一方、かつての名門私立は今でいう「民業圧迫」のために大量倒産したり、戦後まで倒産を免れても、新制高校で生き残るために、公立高校に合格できない生徒を受け入れて、東大合格どころが大学合格さえ縁のない学校になったわけです。その後、学校群が始まるまでは日陰の存在に甘んじることになります。
 そして、戦前の私立大量倒産の引き金を引いた旧府立五中(小石川)がまた戻ってきました。果たして、現在の私立経営者がどこまで事態を正しく把握できているでしょうか。もっとも、旧府立五中を召還したのは、私立の放漫経営であったのも事実です。