大分県の合同選抜と東大合格者数の推移

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※この記事は11月23日に書いています。

 以前、岡山県で分析したように、大分県でも合同選抜と東大合格者数の推移を追ってみます。大分県の合同選抜で独特なのが、一度廃止したあとに再開したことです。通常であれば、総合選抜・合同選抜・学校群の類は、制度の弊害が指摘されて廃止するので、復活することはありません。また、合同選抜による裁判が起きたこともあります。

  • 学校名の先頭には大分がつくが、表の幅が広くなるので省略
  • 年度は、合同選抜の導入年度ではなく生徒の卒業年度
  • 数値は東大合格者数でトップを取った回数、資料不足のために年度数とトップ回数の合計は一致しない。
  • トップ校が複数ある場合は当分
年度 制度 上野丘 舞鶴 雄城台 鶴崎 ◎東明
1950〜1954 単独 1回 1回
1955〜1963 2校合同 3回 2回
1964〜1975 単独 9回 2回
1976〜1987 4校合同 6回 3回 1回
1988〜1992 4校合同 1回
1993〜1997 2校合同 1回 1回 4回
1998〜 単独 12.5回 0.5回

 上記の表は合同選抜に参加していた高校と上記の期間に東大合格者数でトップをとった高校を紹介しています。合同選抜制度は総合選抜制度と違い、上位合格者には学校の選択権があったので、当時の新設校の大分南、大分鶴崎、大分東にはトップを取る機会はありませんでした。

  • 1950〜1954

 単独選抜の時代です。終戦後直後の受験であり、資料としては参考程度です。大分上野丘大分舞鶴がトップを分け合っています。

  • 1955〜1963

 大分上野丘大分舞鶴が合同選抜をしていた時代です。8年間のうち資料が得られたのが5年分で、それぞれ3回と2回で、合同選抜で優秀層が等分されていたころです。

  • 1964〜1975

 単独選抜に戻り、11年間で大分上野丘9回、大分舞鶴2回と大分上野丘に優秀層が集中しました。また大分舞鶴の2回も1964年と1965年であり、それ以後は単独選抜が定着してから大分上野丘への一極集中状態です。この期間はすべてデータ取れており、それだけ東大合格者数も多かった時代です。

  • 1976〜1987

 大分上野丘大分舞鶴、大分雄城台、大分南の4校による合同選抜です。合同選抜の理由は大分雄城台の新設に伴う処置でしたが、大分上野丘への一極集中を防ぐ意図もあったのでしょう。11年間で、大分上野丘6回、大分舞鶴3回、大分雄城台1回となっています。トップの回数がこれだけばらつくということは、優秀層が分散していた時代です。

  • 1988〜1992

 この期間は、大分上野丘大分舞鶴、大分鶴崎、大分東による合同選抜です。4年間です。この4年間で大分雄城台がトップを1回で、それ以外はデータ不足です。まず、大分上野台のグループからは市内トップ校が出ていません。大分雄城台は別のグループです。実はこの期間どの高校も東大二桁どころが5人も合格できない惨状だったのです。学校選択の自由を奪った合同選抜がどれだけ全体のレベルを低下させたか注目すべき事例です。

  • 1993〜1997

 この期間は、大分上野丘大分舞鶴だけの2校による合同選抜に戻りました。6年間のうち、それぞれ1回ずつです。それ以外の4年間は私立の大分東明が市内トップになりました。行政が競争原理を否定すると、優秀層は私立に流れるという非常に興味深い事例です。

  • 1998〜2013

 単独選抜に戻してから、15年間ですが、大分上野丘が12.5回、大分東明が0.5回です。0.5回があるのは1998年に大分上野丘と大分東明がトップを分け合ったからです。1999年以後は、大分上野丘に優秀層が集中しました。これも興味深い事例で、行政が公立トップ校の邪魔をしなければ、私立は優秀層を集めることができなくなって東大合格者数も低迷してしまいます。

 大分県は人口120万人程度の県で、東京都の10分の1ですが、合同選抜→公立低迷→私立勃興→公立崩壊→行政のテコ入れ→公立復活→私立低迷の流れを見事に示しています。