総合選抜と学校群の年表

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50-59 60-69 70-79 80-89 90-99 00-09 10-
京都 53→
岡山 53→ →02
長崎 53→ →06
大分 54→ →64 76→ →98
兵庫 56→ →13
広島 56→ →01
宮崎 66→ →06
山梨 67→ →10
東京 70→ →84
徳島 75→ →06
愛知 76→ →91
岐阜 77→ →85
三重 77→ →97
千葉 78→ →80
福井 83→ →06
  • 数字は西暦の下二桁、[総]総合選抜、[群]学校群

 学校群も定義上は総合選抜に含まれますが、受験史を語る上で強烈な印象を持つ用語なので、この記事の表題は、『総合選抜と学校群の年表』にしています。冒頭に wikipedia のリンクを紹介しています。総合選抜制度のメリットとデメリットを併記してあります。wikipedia で指摘されているように両者の妥協点はないでしょう。私は総合選抜否定派として、総合選抜や学校群は否定しますが、だからといって肯定的に捉える人を説得する気はありません。そういう人たちを『教育格差助長主義者』と呼ぶだけです。
 人間、及び生物は生きている限り競争は避けられません。競争を否定しても、競争は必要なのですから、どこかに競争の場ができます。公立高校の受験から競争を否定したら、結果的に、私立高校が競争の場になり、それが低年齢化して、私立中学が競争の場になっただけです。公立高校受験が競争の場であったときは、基本的に本人の勝負ですから、家庭の経済格差や親の教育熱は関係ありません。15歳ともなれば、自分でやる子はやります。ところが、12歳では結局家庭の経済力や親の教育熱の勝負になってしまいます。それでも公立中や公立高校がまともに機能していれば、「中学受験したい家庭は勝手にやれば」で終わるのですが、日本で唯一それを許さない地域があります。それが首都圏です。
 ただ、これに対して、私は、毎年2月24日に記事*1 *2にしているように、東京大学は教育格差社会を解消している機能を果たしています。だから、この大学は日本社会で最後の良心なのです。最近は、秋入学とかふざけたことを言っていますが、日本の教育格差解消機関として、最後まで春入学を守り、日本の教育制度を支えてほしいものです。秋入学を始めた時点でこの大学は終わりでしょう。
 東大こそ教育格差の象徴と誤解する人がいますが、東大の入試問題は、中学受験の先行逃げ切りを許さない問題になっています。それは東大合格者の出身高校の分布を見ると分かります。最終的には、家庭の経済力も親の教育熱も関係なく、本人の努力が最大の合格要因です。
 本題からずれて長文になってしまいましたが、総合選抜制度は、受験生本人が最後まで志望校を選べない制度です。学区細分化とは問題点の次元が違います。東大二桁合格校列伝で過去の名門公立高校が出てきますが、その衰退と総合選抜制度は密接に関連しています。