都立高校衰亡史 5 - 1982年 グループ合同選抜制度

スマホで表を見る場合、画面を横向きにし、必要ならPCビューにしてください。

 グループ合同選抜制度は、都立高校衰退の時期と重なったこともあり、その内容を評価する以前に、悪名高い制度になってしまいました。
 内容を机上で評価すると

  • 都立全盛期を築いた学区合同選抜制度と同一である。
  • 都区部でのグループ分けは、将来大学に進む進学校と、高校卒業後就職を目指す普通校に分けており、進路選択として合理的である。

 ところが、広報上制度上次の欠陥を持っていました。

  • 「群」を連想する「グループ」という名前を採用したことで、改悪制度と受け止められる(学校群は失敗だったのでそれ以前の制度に戻すと正直に言うべきだった)。
  • 多摩地区では細分化された学区導入で優秀層を分断してしまう。

 グループ選抜の狙いの一つに、学校群を廃止することで優秀層を学区トップ校に集め、都立高校の存在感を高めるということでした。実際、西・富士群と、戸山・青山群は東大合格者数高校別ランキングでも、全国上位10校の影の常連であり、立川・国立群も上位10校に食い込むまで成長し、決して東京都の公教育は潰滅していませんでした。これを学校群の撤廃とともに、名目上も、西や戸山を上位10校に戻すことでした。
 しかし、この制度では、机上の演習でも富士・青山が切捨てられるのは明白でした。わずか10年の間に、日比谷や新宿を壊滅させるまで追い込んだ都の教育改革が、今度は富士・青山を潰滅させるわけです。現状では、西・戸山優遇と言っても、将来、都の役人は気まぐれで西や戸山も潰すこともありうると都民は思ったはずです。この年を境に、都民は都立高校そのものに決定的な不信感を持ってしまいました。一気に私立中への移行です。
 しかも、バブル景気が始まりつつあり、所得が右肩上がりに増えると信じていた時代です。中産階級も一気に私学に流れました。小学校4年生の子供がいる場合、1982年に中学受験の準備を始めると、1984年に私立中入学、1990年に大学受験になります。巣鴨・海城・桜蔭が1990年代に爆発的に東大合格者数を増やした*1のも偶然ではありません。
 また、学校群の制度下でも、単一学区として、都立国立・立川のツートップにより全国有数の公立学区となっていた多摩地区を4個の学区に細分化したのも大きな失敗です。