教育機会のノーサイド

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 私は、このブログの中で、私立を、特に高校募集をしていない私立を批判しています。でも、私は私立による教育そのものを否定しているわけではありません。私立を経営するのであれば高い授業料に見合った教育をしてほしいということです。少なくとも、ゆとり教育と公立中の荒廃によって緊急避難的に生徒を受け入れ、ろくな教育もせずに放置しているような2000年前後に中高一貫教育に参入した私立には退場してほしいだけです。私立の数が多すぎるのです。
 非情な言い方をすると、私立中と公立中を分ける境界は、親(か祖父母)の資産です。資産に余裕のある人は私立中でそれ相応の教育を受ける資格はあると思います。ところが今の中学受験は、公立中が荒廃しているとの理由で、緊急避難的に行われ、本来、私立中に行かせる余裕もない家庭まで巻き込んでいます。
 「貧乏人は公立中に行け」という陰口もあります。しかし、1990年〜2005年頃までは、公立中に行くということは、難関大学に行く道も閉ざされるという状況でした。それは資産家が、「貧乏人は高度な教育を受けずに一生下働きをしろ」と宣告するようなものです。まさに、『教育格差絶望社会*1』の到来です。
 この状況に一つの転機をもたらしたのは、東京都の教育改革でした。公立中からでも難関大学にいける都立高校を用意するから、一般家庭の皆さんは、中学受験産業の脅迫商法には惑わされないようにということです。その甲斐もあって、中受ピーク(私立中学受験人口が増加から減少に転じた年)は2007年から2009年ごろに来たと言われています。現在では高校受験(や都立一貫校)に回る層が増えています。どのコースに行っても努力すれば最後は難関大学で高度な教育が受けられる、同じ机で肩を並べられる、まさに教育機会のノーサイドです。
 本来、私立一貫校というのは、健在な公立中の教育があった上で、さらにそれを上回る付加価値を提供しながら、成長するものです。公立中の負の側面に付け込んで商売をやっている私立一貫校はいりません。開成・麻布・駒場東邦・栄光・聖光など現在でも好調な私立は、公立高校全盛のときに既に頭角を現しています。