首都圏全体で見ると、桐蔭学園の功績は大きいのですが、神奈川県から見ると、大きな功績と大きな傷痕を残しました。功績は語るまでもありません。学区細分化の時代に、神奈川県の内陸部に優秀層の受け皿となると進学校を作ったことです。県内に留まらずグループ合同選抜制度で学区を細分化された東京都多摩地区からも優秀層を受け入れました。
- 1981年、神奈川県9学区から16学区→1984年卒業初年度*1
- 1982年、東京都グループ合同選抜制度→1985年卒業初年度
校名 | 都県 | 1983 | 1984 | 1985 | 1986 | 1983→1986 |
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桐朋 | 東京 | 39 | 38 | 46 | 64 | △25 |
都立国立 | 東京 | 35 | 38 | 30 | 18 | ▼17 |
立川 | 東京 | 27 | 23 | 19 | 7 | ▼20 |
桐蔭 | 神奈川 | 22 | 37 | 40 | 49 | △27 |
厚木 | 神奈川 | 14 | 15 | 16 | 14 | =0 |
上表は東大合格者数の推移です。1981年が学区細分化初年度、その卒業生が1984年です。1982年がグループ選抜導入年、その卒業年が1985年です。制度変更の時期は事前回避が起き、制度変更後の卒業初年度は浪人の合格者もいるので、顕著な差はでませんが、影響が出る前の1983年と、影響が出たあとの1986年を比較すると、桐蔭学園の初期の躍進は、神奈川県の学区細分化とグループ合同選抜による多摩地区の都立高校衰退と一致しています。一方、この時期は、神奈川県内陸部の厚木高校は依然として実績を維持しています。曲がりなりにも内陸部で桐蔭学園が高校募集の学力レベルを維持していたからでしょう。
- 1990年、神奈川県16学区から18学区(内陸部を分割)→1993年卒業初年度
この時期が神奈川県最後の学区細分化です。これにより神奈川県の内陸部でも公立高校離れが進みました。そして、桐蔭学園の絶頂期が始まり、1998年まで続いています。
- 1992年、慶應湘南藤沢中学校開校→1998年卒業初年度
1999年に桐蔭学園は東大合格者数を半減させ、以後、負の循環に陥ります。この時期、桐蔭学園の減少分を補充した学校は神奈川県内にはありません。一部は東京都に向かったでしょうが数的には多くありません。となると進学校以外の学校に向かったのでしょう。それは1992年に開校した慶應湘南藤沢中学校の影響が大きかったと思われます。
この後、浅野が高校募集を停止し、神奈川県内の有力校で桐蔭だけが高校受験を続けました。高校受験の優秀層をマンモス私立校一校だけが独占することにより、競争原理が働かず、高めに設定された授業料など、私立が魅力を失い、公立も内申重視の選抜が続き、高校受験そのものに希望が消えていくことになります。